こんにちは、ニパです。
突然ですが、買い物をしたときに、ふと「高いね」「贅沢だね」と言われることはありませんか?
特に、自分の好きなものや気に入ったものを選んだときに。
別に腹が立つというほどではないのですが、どこかモヤモヤした気持ちが残ることがありました。
そして、その理由がずっと分からないままでした。
そのモヤモヤの正体
考えてみると、そのモヤモヤは「値段」そのものではありませんでした。
「高いね」という言葉自体に問題があるわけではありません。
ただ、その瞬間に私の中で、「自分の選んだものの価値を疑われた」ような、
そんな小さな違和感が生まれていたのだと気づきました。
もしかしたら、相手にそんなつもりはなかったかもしれません。
でも私は無意識に「その選択は正しくないんじゃない?」と言われているように感じていたのです。
でも、ちょっと待って。
本当にその選択は「間違っていた」のでしょうか?
実際のところ、私はその時点で「その金額を払うだけの価値がある」と
自分の中で納得しているからこそ買っています。
お金、時間、気持ちなど、自分が負担できるコストと、
そこから得られる満足感や心地よさが、きちんと自分の中で釣り合っているからです。
そのバランスは他の誰でもなく、自分自身が判断しているものです。
人それぞれの天秤
そこでふと気づきました。
私が自分なりの基準で判断しているように、他の人にも、それぞれの基準があるはずだ、と。
改めて考えてみると、人はそれぞれ心の中に「天秤」のようなものを持っているのだと思います。
収入、生活スタイル、価値観、求めているもの……。
それらが違えば、「何に価値を感じるか」も当然違ってきます。
例えば、一人暮らしの場合
食費を少し抑えて、その分の費用を自分の部屋づくりに回すことがあります。
自分が落ち着ける空間で過ごしたい、その気持ちが優先されるのです。
この人にとっては「心地よい空間をつくること」が大事な価値です。
一方で、四人家族の場合
生活の機能性や日々の食事の充実を優先することもあります。
家族全員がしっかり食べられることが、その家庭にとって大切な価値だからです。
どちらも間違っていません。
ただ、置かれている状況や大事にしたいものが違うだけで、
見えてくる「価値」もまったく異なるということです。
気づいたこと
ここまで考えて、ようやく分かりました。
あのモヤモヤは、相手が「私の天秤」を理解せずに、
「自分の天秤」で私の選択を測ったことから生まれたものだったのです。
でも同時に、私も無意識に同じことをしているかもしれない、とも思いました。
つまり、「高いかどうか」や「贅沢かどうか」が本質ではなく、
知らず知らずのうちに、自分の天秤をそのまま他人に当てはめてしまうことがある、
ということなのだと思います。
価値は人の数だけ存在していて、一つの物差しで測れるものではありません。
結局のところ、ものごとの本質は値段ではなく、
それが「その人にとってどれだけ価値があるか」。
安いものが良いときもあれば、高いものが心を満たすときもあります。
そこに優劣はなく、人それぞれ違う「ちょうどいいバランス」があるだけです。
最後に
今回のことをきっかけに、何かを評価しそうになった時、
自分のその評価は「どんな前提」や「どんな基準」の上に成り立っているのか、
少しだけ立ち止まって考えてみたいと思います。
そして、自分とは違う選択をする人を見たとき、
「その人にはその人の天秤がある」ということを、思い出せたらいいなと思っています。