人の脳は情報過多に陥らないように、ある程度分類をしたりグループピングしたりアーカイブするような機能があると聞いた。
もしかすると、経験すればするほど豊かになる反面、ある程度こういうものだと括られてしまうとしたら、はじめて海に足をつけた喜びも、合体ロボを変形させたドキドキも、デートの口実をつける緊張感も、すべてはアーカイブに混同されてしまうことに。ある程度こういうものだとわかった気になることは、新鮮味だけでなく感謝といったことまで失われてしまう。
しかし、日常を“意図的に分断し、再接続する”とこで、新しい気持ちに気がつくことができるのではないか。実はそういったことを自然とやっているのではないか。今日ははそんなお話。
意図的や日常の分断はどんなものがあるだろうか?──
例えば海外旅行に行って違う環境そのものに身を置く、コンシューマゲーム機でファンタジーのオープンワールドを探索することもそうかもしれない。(STARFIELDやりたいなぁ)スポーツは、上手くいかないから上手くできるようになることを身体的な感覚で味わう点では脳にすごく良さそうだけど、日常の延長線上で世界観的に分断というところまではいかなそうだ。書きながら思い出したが、茶室で茶を飲むということも、あの小さい入口(にじり口と言うらしい)から日常の分断が意図的な空間演出がありそうと考えると妄想が広がる。
そういった意味でいうと、自分は映画館で映画を観る行為が、ほどよく日常の分断になっていたのかもしれない。
暗闇で2時間近く強制的に鑑賞する。No eating. No telephone. No talking.
映画はほとんどが非日常ではあるけど、とくにSFは単なる非日常ではなく、かけ離れてるけど延長線上にありそうなところがよい。めちゃくちゃSFファンですというわけではないが好きなジャンルであることは間違いない。
最近では、Kindleで読んでる小説「プロジェクトヘイルメアリー」がすごく面白いし、家族というテーマを、SFとエンターテイメントとして消化したクリストファーノーランの「インターステラー」は大好きだし、庵野さんの展示図録はワクワクする。機械のディテールやカメラの構図とか。男女の区別をしない方がいいよねという時代だけど、たぶん男のロマンなのである。
そろそろ日常を分断しに行こうかと思っています。