優れた人は、ロジカルであり、エモーショナルである。
Appleのスティーブ・ジョブズや、元大統領でありながら毎年音楽プレイリストを公表するバラク・オバマ。
これからの時代は、理系でも文系でもなく、その中間に立てる人ではないか。
今日はそんなお話です。
打ち合わせに行く途中、電車内で気になる日能研の問題を見かけました。
わかりやすいよう画像にします。
「ア」と「ウ」にあてはまる数字と、「イ」にあてはまる文を答えなさい。というのが問題です。
答え
A 2,000円
B 500円をもらってる子が一番多いから
C 1,000円
ですかね。
ここまでがロジカルです。
中学生の入試ですから正解は難しくありません。
ではエモーショナルに考えるとどうなるか?
問題の”意味”にまで思考を巡らせてみましょう。
正論でフタをする親の構図が、まるで社会の縮図を表しているような。
いや、それも片方の側面でしかなく、この家庭には切実な事情があるのかもしれません。
もしかしたら親同士のグループLINEで、お小遣い事情という見えないやりとりが裏で繰り広げているのかもしれません。
またロジカルに思考を戻すと、
2,000円へのアップは年間計算で18,000円の追加出資。なかなかのものです。
見方を変えると両親は、上がる額そのものではなく、1,500円増えることによる遊び方が変わること。
1,500円も増えれば、買うものが増える。行ける場所も広がる。アプリのガチャにも手が届く…など。
金額というただの数字の事象の裏に隠された行動の変化まで想像できる、娘のモラルハザードを懸念しているしっかりとした親なのかもしれません。
お母さんとお父さんの台詞にも注目していきましょう。
お母さんは典型的な「よそはよそ、うちはうち」スタイルです。絶対に一度は言われる言葉。
私も言われました。
みんなスーファミ買ってもらってるし!みんなって誰だ言ってみろ、みんなじゃねぇじゃねぇかと。
お父さんの台詞はどうでしょう?
”女性からの相談に対し、真理めいたアドバイスをして痛い目にあう”という一番ダメなパターンです。
もしかするとこの白い空欄の中身、お小遣いの全国平均を出しそれを突きつけているとしたら。
「その調査は10人という “n”分母が足りないんじゃないか。少なくともこの地域の学校の中学生総数、並びに3年の全国平均値がないと精度が低い。私もそんなことをお前にさせたくはない。だから、500円がちょうどいい。」
そんなマーケティングは誰も幸せにならない。
問題を読んでいる私も、いつかこの両親と同じようになってしまうのでは?そんなうす暗い気持ちに。電車内でこの問題を目にする、親たちへのアンチテーゼこそがこの問題の”答え”なのか。。
姉の台詞も見てみましょう。
的確なアドバイスをしてくれているようですが、
”言ってくれました”という言い回しからは、意外とめんどくせぇなコイツと達観しているような感じも。
しかし「あんたね、あたしだって500円だったから!」と言わないところをみると妹思いのやさしい姉かもしれませんね。
妹と姉の年の差のデータがない以上はわかりません。これはロジカルの限界です。
こうあったらいいの理想で考えるのはエモーショナルにやや傾きすぎです。
皆さん、ここで気になることはありませんか?
はじめの部分、Aさんでもいいところを「頌子」という固有名詞にしていること。
問題の中で唯一の具体性が出ているところ、ここに出題者の意図があるような。
しかも、一見して読めない名前をあえて。(私は恥ずかしながら読めませんでした)
「頌」はなんて読むのか?漢字の意味は?
で調べてみると、、、。
『ほめる。ほめたたえる。』
これこそがこの問題の真理。
主人公はおこづかいに対して、感情論ではなく10人に聞いて平均を出すような形で提案をしてくれました。
それなのに、両親そろって正論で否定。名付け親である自分たちが、娘の名に込めた願いとは逆の行為をしている。すこしでもその努力をほめていれば。
そう、問題のはじめに答えはあったのです。
真っ向からはねのかされ、それでも諦めきれず姉に相談し、
ふたたびのお小遣いアップの交渉へと向かう頌子。今の彼女にそれができるのか。
少し汗ばんで握りしめた頌子の手は、緊張と勇気という、かけがえのないきらめきの1ページ。
FIN